その96 「仁丹」

おじいちゃんは仁丹の匂いがしていた。

 

うちの祖父だけでなく 高齢の男の人に近づくと

たいてい仁丹の匂いが ぷんと漂ってきた。

 

小さな透明のガラスびんに入っていたような気もするが

小さなマッチ箱のようなものだったかもしれない。

 

仁丹の匂いはさわやかで すーっとするのだが

口に入れると舌がしびれたようになって

噛み砕こうものなら苦くて はあはあする。

 

粒は小さく丸い銀色で 薬のように水で飲むわけでもなく

お菓子なのか薬なのか判らない。

 

祖父は容器から手のひらに振り出して

一日に何度か 口に放り込んでいたが

緑内障のため ほとんど目が見えないので

落としてしまうと かいちゃんを呼んで探させる。

 

拾ってあげると「食べ」と言う。

 

噛むと苦いが 味はけっこう好きだったので

ちょっと口の中で転がして ごくんと飲み込むことにしていた。


その95 「みぞそうじ」

四丁目は平屋の一戸建てが6,7軒ずつ1ブロックになっていて

家の前には排水の溝が掘ってあった。

 

道はゆるい下りになっていて

溝に流れた水はそのまま下方の千里川に流れ込むのだが

炊事と洗濯の排水くらいのもので

常識としてあまり汚いものは流さなかった。

 

月に一度『みぞそうじの日』というのがあって

お母さんたちが竹ぼうきを持って出て来る。

 

坂の上の方から全員でかりかりと溝を掃いてゆく。

一番上の家がちょろちょろと水を流しているので

コンクリートと水と竹ぼうきの音がしゃっしゃっ と響く。

 

がやがやお喋りしながら通り過ぎるので

何軒目を掃除しているのかが、家の中にいても分かる。

 

一番下まで行ったら全部の家がざーっと水を流して

それで『みぞそうじ』はおしまいである。


その94 「でんでん虫」

庭の紫陽花の葉っぱの裏には でんでん虫がいた。

 

雨が降っている時には外に遊びに出ないから

晴れたときに見つけた でんでん虫は

すっぽりと殻にひきこもっている。

 

つのだせ やりだせ 目玉だせ〜という歌があるので

殻から出てくるところを見たいと かいちゃんは思った。

 

雨が降っていると出てくると聞いたので

台所にいる母のところにバケツを持って行って

水を入れてもらった。

 

砂遊び用のじょうろで水をちょろちょろかけてみたが

いっこうに出てくる気配がない。

 

もっと大量の水が必要なのでは、と思うと同時に

既に玄関の横が水びたしになってきたので

こんなことをしていては母に叱られると思った。

 

かいちゃんは水の残ったバケツにでんでん虫を放り込んだ。

こうすれば大雨だと思って出てくると考えたのだ。

 

そのまま遊びに行ってしまった かいちゃんが

帰ってみるとバケツは片付けられていて、

母も かいちゃんもでんでん虫のことについては

あえてふれようとはしなかった。


その93 「紫陽花(あじさい)」

玄関わきに大きな紫陽花の株があった。

 

どこの家でもたいてい紫陽花はあるけれども

かいちゃんの家の紫陽花は 手毬ほどの大きさの花のかたまりで

通りがかりの人が足を止めるほど見事であった。

 

紫陽花は ”挿し木” することができるので

花が終わる頃には知らない人までが

「ひと枝、分けてください」と言ってきた。

 

最初クリーム色の花弁が淡いブルーに染まっていき

どんどん濃くなって鮮やかな藍色になり

それから赤みがかって紫色に変わる。

 

母は自慢の紫陽花の枝をみんなに切ってあげていたが

挿し木をしても同じ色になるとは限らない。

 

土壌が酸性だと綺麗な青になる、と聞いてきた母は

「うちの土は酸性だから」と自慢していたが

特に土の手入れをしていたわけでもなく、

「土が酸性なのは自慢できることなのか?」と

かいちゃんは疑問に思っていた。


その92 「バッタ」

庭の隅っこには青じそが植えてあった。

 

夏の間中 そうめんや何やかやに活躍していたが

バッタがしきりに食べるので

レースのようになった葉っぱもあった。

 

1センチか、大きくても2センチほどの

細い流線形のようなスマートなバッタは

青じそと同じ色なので 紛れて見えない。

 

葉っぱを摘もうと手を伸ばすと

慌てたようにぴょんぴょんぴょんぴょん

あっちでもこっちでも跳びまくる。

 

すばしっこいし小さすぎて指の間をすり抜けるので

なかなか捕まえられない。

 

「 ”しょうりょうバッタ” という名前である」と

物知り顔の姉が教えてくれたが

子供たちは ”しょうじょうバッタ” と呼んでいたので

『姉は間違えている』と かいちゃんは心の中で思った。


その91 「物干し竿カバー」

竹の物干し竿は古くなると ざらざらしたり

黒い斑点が出てきたり割れてきたりする。

 

あるとき竿竹屋さんが「便利なものがある」と言って

水色のビニールのようなものを勧めてくれた。

 

竹竿に この筒状のビニールをかぶせて熱湯をかけると

熱で縮んで竿にぴったりと貼り付くのである。

 

母はまず1個 試しに買ってみた。

熱湯を使うので、かいちゃんが幼稚園に行っている間に

やってみると思いのほか上手く出来た。

 

幼稚園から帰ると母が 青い物干し竿を指さし

「ほら見て、ほらほら」と嬉しそうに言ったのを憶えている。

 

青いビニールの物干し竿はつるつるぴかぴかしていて

袖を通したシャツがはたはたと はためいていた。

 

まもなく家の物干し竿は全部 青色に変わったが

しばらくするとビニールが硬くなってひび割れ

ぽろぽろと剥がれ落ちてきたので 母は少し不機嫌になった。


その90 「電気蚊取り器」

父がどこかで木材と網を買ってきて網戸を作った。

 

手作りの網戸は隙間だらけなので蚊が入ってくる。

しかたなく蚊取り線香を焚くが煙たくて喉が いがいがする。

 

そのうちに『電気蚊取り器』というものが発売された。

 

直径10センチくらいの丸い形で色はピンクだった。

全体はプラスチックだが真ん中に四角い金属部分があって

ここにチューブで薬剤を2センチほど絞りだす。

ちょうど練り歯磨きのような感じで、これも色はピンクだった。

 

白いコードが付いていて スイッチなどは無く

プラグをコンセントに差し込むと金属部分が熱くなって

ぷーんと甘い匂いがしてくる。

煙たくはないが、やはり喉が痛くなるような匂いだった。

 

朝になると薬剤はカサカサに乾いているが

甘ったるい匂いはまだ残っている。

 

なんだか強力な毒物のような気がして

プラグを抜いて薬剤をゴミ箱に捨てるときは

いつも息を止めていた。



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