その84 「バイエル」

幼稚園の年長さんになった頃

シスターがピアノを教えてくれることになった。

 

ピアノの入門と言えば「赤いバイエル」である。

音楽の才能があったのか、この本をあっというまに修了し

勢いに乗って「黄色いバイエル」に突入した時

すっとばしたツケがまわってきた。

 

”半拍” が弾けなかったのである。

 

優しいシスターは一生懸命になって

肩をトン・ト・トンと叩いたり、

手で拍子を打つ練習をさせようとしたが無駄であった。

 

体ではなく理解力に訴えようとしたシスターは

黄色いバイエルのページの空白にリンゴの絵を描いた。

その横に半分に切ったリンゴの絵を描いてくれた。

 

音の長さとリンゴにどういう関連があるのか、

かいちゃんは今度こそ本当に分からなくなった。

 

地道な努力を苦手とする かいちゃんは、

”ピアノをやめたいのはリンゴのせいだ” と

妙な言い訳をして母にあきれられた。


その83 「嫁とり 婿とり」

「嫁とり 婿とり やれ忙しや」という呪文があった。

 

出かけようとして 服のボタンが取れかけていたり、

ほころびているのを見つけてしまった時、

脱いでいる時間が惜しいので この呪文を使う。

 

母が針と糸を取り出して

「嫁とり 婿とり やれ忙しや」と言いながら

かいちゃんの服の”ほころび”にぷすりと針を刺す。

 

つまり『忙しいから脱いでいられないの』 という言い訳であり、

『だから針が刺さらないように守ってくださいね』

というお祈りなのである。

 

服を着たままちくちく縫ってもらうのは

ちょっとしたスリルでもあるが、

母が絶対に間違って刺したりしないだろう

という安心感もあって、

かいちゃんはこの呪文を聞くのが好きだった。


その82 「めばちこ」

”めばちこ” は「柘植(つげ)の櫛」で治す。

 

柘植の櫛は母の鏡台の引き出しに入っているが、

髪をとかすときはブラシを使っているので

”めばちこ” の時くらいしか出番がない。

 

なまこ型というのか、背の部分が柔らかくカーブしていて

ぽってりと厚みのある小さな木の櫛である。

 

櫛の背を畳のへりの黒い部分にしゅっしゅっしゅと擦りつけ、

「めばちこ、めばちこ」と言いながら

すかさず ”めばちこ” に押しつける。

熱を持った櫛の背は熱すぎず心地よい感触である。

 

本当はそのあと井戸をのぞきむのだ、と母が言うが、

大阪の新興住宅地に井戸など無いので仕方がない。

 

”めばちこ”ができるとこれで治ったように思う。

 

東京から転向してきた子が

”めばちこ” のことを ”ものもらい” と言ったが、

そんな呼び名では ”目” のことだと分からないではないか、と

かいちゃんは 東京を少し馬鹿にした。


その81 「プールと うちわ」

幼稚園にはタイル貼りのプールがあった。

園児が座っても胸のあたりまでしか水が来ない、

20人位でぎゅうぎゅうになる小さなプールだった。

 

夏の暑い日の午前中に年長さんと年中さんが入り、

水温が上がる午後に年少さんの園児が入る。

 

午前中に用事があって午後から幼稚園に行った時、

年長組の かいちゃんのプールの時間は終わっていた。

 

先生がたぶん気を利かせてくれたのだろう。

かいちゃんは年少さんと一緒にプールに入った。

 

しかし かいちゃんがプールに入っているあいだ、

年長組は”うちわ”作りをしていたのだった。

 

白い うちわに茶色い縦線が三本描いてあって、

折り紙で朝顔を折って自分で貼る。

とんぼのシールを二枚、好きなところに貼る。

 

みんながほとんど出来上がっているのを見て

プールから上がった かいちゃんは呆然とした。

しかし優しい先生は かいちゃんの分の朝顔を折り、

既に うちわに貼り付けてくれていて

とんぼのシールを貼ればいいだけにしてくれていた。

 

工作など少しも好きではない かいちゃんだったが、

「これを自分の ”うちわ ” と言っていいものか?」と

釈然としない もやもやとした気分を 妙にはっきり憶えている。


その80 「かまぼこ板」

プールと言えば「かまぼこ板」である。

 

かまぼこ板の表には黒マジックで、

裏側には赤マジックで自分の名前を書く。

プールサイドに居る時は黒い方を上にして、

水に入るときは裏返して赤い方を見せておく。

 

先生が言うには

「みんなが水から上がっても赤いままの札があれば

だれが沈んでいるかすぐに分かる」とのことだった。

 

図書室の本を借りるときも

本を抜いたところに名前を書いた板を入れておく。

誰が借りているか分かるし、本を戻す場所もすぐ分かる。

 

かまぼこを剥がしたあとの板にひっついたところを

母が包丁の背で こそげ落として かいちゃんにくれる。

木の香りがして薄っぺらでふわふわしているので

かまぼこ本体より好きなくらいだった。

 

学校から「かまぼこ板を持って来るように」

という指示が ふいに来ることもあるので

母は常に2,3枚のかまぼこ板を用意してくれていた。


その79 「サンダルと石鹸」

町内のプールから水滴をぽたぽた垂らしながら

水着にサンダルでぺたぺた歩いていた かいちゃんは

思わぬ災禍に見舞われた。

 

ビニールのサンダルの2センチ幅のヒモの部分が

にゅるんと足の甲のところまで来てしまった。

つまり足が奥まで入ってしまったのだ。

 

いててて、と思いながら家まで慌てて帰ったが

足が鬱血してきてヒモがいよいよ食い込んできた。

 

半泣きになりながら母に見せると

母も慌てて脱がそうとしてくれたが

ずんずん足がむくんで、もはやどうにもならない。

 

「ヒモを切るしかない」と母が言う。

ピンク色のビニールのサンダルは安物かもしれないが

かいちゃんのお気に入りのプール行きアイテムであった。

 

痛さと情けなさでべそべそ泣きだしたら

母がいきなり石鹸と洗面器を持って来た。

手で石鹸を泡立て、かいちゃんの足とサンダルに塗る。

と、つるりんと足がサンダルから抜けた。

 

母は「ほらね!」と自慢げに言ったが

「もっと早く気付いてほしかった」と

紫色になった足をさすりながら かいちゃんは思った。


その78 「町内プール」

夏休みの間 ずっと淡路島にいたような気がするが

実際は1週間ていどだったのだと思う。

 

家にいるときは 朝のラジオ体操に出て

首からぶらさげたカードにハンコを押してもらったり

町内にあった小さなプールに行ったりしていた。

 

町内のプールは深さが40センチくらいの

水遊び場というほうがふさわしいような代物で

お母さんたちが順番に見張り番をしていた。

 

更衣室もシャワーも何もないので

家から水着を着ていって、終わったら濡れたまま帰る。

 

底も壁もコンクリートでじゃりじゃりしていて

膝や肘をすぐ擦りむいてしまう。

 

いつのまにか出来て、いつのまにか無くなったので

お父さんたちが作ったものだったのかもしれない。

 

浮き輪を抱えた かいちゃんは嬉々として

つっかけをペタペタさせて走っていったものだ。



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